毎日の生活の中で、人は必ず、食べたり飲んだりする。そして寝る。着替えたり入浴したりする。
生まれてから死ぬまで、その営みは永遠に続く。年齢や性別や生まれたところなどの属性にかかわらず、それは誰にも同じように発生する。
その営みをやることで、自分が満足したり、喜んだりすることはよくある。しかし、誰かに頼ってばかりとか、誰かのために我慢してやらざるをえなかったりとか。そのために、周りとの関係性がよくなったり、悪くなったり。それはケースバイケース。
私が自分の子どもに望んだこと。
それは自分の始末は自分でできるようになること。そして、周りへの手助けもできるくらいの技能を身につけること。一人で暮らすならなおのこと、誰かと暮らすとしても、「できる人」と「できる人」で暮らしたらどんなに楽か。楽しいか。してあげても幸せ。してもらっても幸せ。
そんな人生を送る人になってほしい。
私と夫との関係はこれに近い。
夫は、食事の準備や買い物、片づけなどが得意。結婚してからここまで、ずっとお互い家事をやっている。分担というより、やれるほうがやる感じ。もともと二人とも家事力は高い。子どものころから家の手伝いをやらされた時代に育った恩恵だと思う。
子どもが生まれ、ちょっと大きくなったある日、気が付いた。
昔と比べるとお手伝いすることがないな。昔流にお手伝いすることはない。薪運びも風呂のたきつけもしなくていい。なんでもスイッチ一つでできる時代になったな。これは、本当に意識していないと、気が付いたら何もできない人になってしまうかも。
勉強が出来たら親としてはもちろんうれしい。友だちが100人出来たらこれもうれしい。走るのが速くても、ボール投げが上手でも、おしゃべりが上手でもうれしい。
子育ては全部うれしい。
本当は、いてくれるだけでうれしい。
けれども、ただうれしがってばかりはいられない。
それに、何ができるようになったとしても、暮らしを支えるためには「食べて寝て風呂入って」がある。そしてそれは永遠に死ぬまで続く。
「家事」とは自分の人生を支える「まな板」だと思う。
「まな板」の上で「人生」が料理されるとしたら、なくてはならないもの。だから子どもが小さいときから、何より「家事のできる人になってほしい。」と願った。
これは性別には関わりない。